住んでいる土地の歴史を知りたいと思うことはよくあること。
そんなことを考えていたら、ガイドボランティアさんの企画で、まさに地元を歩くツアーがあったので参加しました。曰く、「保土ケ谷の工場跡地とYBPをめぐる」。2015年6月28日、快晴。
◀8時半、星川駅に集合で概要のお話がありました。
現在の基準で考えるとかなりの広さとなる大工場が、明治末から昭和50年前後まで、いくつもこの保土ケ谷にあったとのこと。
なぜ、保土ケ谷に大工場が集まってきたのか?興味のあるお話がいくつもありました。
それに伴う光と影のお話もありました。
まずは、当時はのこぎり屋根が続いていたという古河電池のあったところから歩き始めました。
星川駅前の道から旧へそ公園を含む広大な土地でした。
現在その土地には星川駅前に本社ビルが残りますが、相鉄に売却したり、高層マンション、いなげや、星川中央公園となっています。
◀ 現在は星川駅前に本社ビルがあります(写真中央:高架工事の向う、青色文字のFBが壁面にあるビル)。
なお、星川駅は以前は「北程ケ谷(きたほどがや)」駅と言われていたようです。その時現在の上星川駅が星川駅という名前だった。それがどのようなことで現在の名前に変わってしまったのだろうか?
水道道にさしかかる。帷子川にかかる橋には、コンクリート製の管がかかっています。今は使われていないようです。
道路の向う側には現在はコーナンがありますが、以前は日本精糖の工場があったのを覚えています。
また、近くにはビデオ店もあり、よくビデオを借りたのを思いだしました。
◀ 富士瓦斯紡績(株)保土ケ谷工場のあったところ。水道道を歩く。
西は現在のコーナンから東はイオン、北は16号線を超えて峰岡町から南は帷子川までの広大な敷地だった。
煉瓦造りの工場群だったが、戦災で焼失、米軍に接収されモータープールになったとのことだ。そういえば自動車教習所があったのを思いだす。
イオンの正面が富士瓦斯紡績保土ケ谷工場の正門だったとのこと。
工員数6000人を超えたことも。沖縄を含め集められた女工哀史のお話もあった。ただ寿退職の際には桐ダンスを持たせたという上司がいたという話も。
ここから通ずる天応町商店街は、表門商店街という企業門前町で、工員のみならず周囲から若者が集まって憩いの場所だったとのこと。映画館も何軒もあったようでにぎやかな街だったとのこと。
◀ 天王町商店街を外れ、古東海道を歩く。
旧東海道ができる前にあった街道とのことです。
周辺は高層住宅が連なっています。ここには程谷曹達(保土ケ谷化学)がありました。
◀ 現在の古町橋。
後で分かるが、橋の下を流れる帷子川は、もともとはここを流れてはいなかった。この橋の少し上流のところから右に大きく曲がってながれていたが、いわゆる暴れ川だったので、流れを変えて現在に至っているとのこと。
旧古町橋跡の説明板。
帷子川は、現在の古町橋の手前あたりから南に大きく蛇行していて、天王町駅の南側を流れていました。これが氾濫のもとになっていたようで、天王町駅の北側を流れるように改良したとのこと。
◀ 岩間町会館。
ここに、現在の場所に移転する前までは保土ケ谷区役所があったとのこと。近くには保土ケ谷警察の跡も。
西久保町(写真右側)へ向かう。
東洋電機製造のあったところ。初の国産電気機関車を製造していました。
現在は、跡地に西久保公園と高層住宅が建っています。
◀ 日本金属工業の跡地には、ステンレス鋼発祥の地の記念碑があります。
保土ケ谷駅へ車両を移動させるため、東海道線から東洋電機製造への引き込み線が、今も残されています(写真左側奥)。 ▶
◀ 耕地整理竣工記念碑
神明社 ▶
横浜ビジネスパーク(YBP)
東京麦酒(M28)→大日本麦酒(M40)→日本硝子工業保土ケ谷工場(T5)→日本硝子(戦後~S60)
◀ 犬も歩けば
YBPは本格的なアートギャラリーでもある。
空想ー風景の指輪 ▶
◀ インディオの会合
テレパーティ ▶
◀ 跳躍 244
ダンス ▶
◀ 行列
時空のはじまり ▶
◀ 石を抱く鎖
移り住んだ土地、何げなく暮らしていたが、そこにある歴史を改めて知ることができました。
近年の変化も目にしていたが、昔からかなりダイナミックに変化してきているのがわかりました。